熱の時に見るブログ

しーっ!静かに。今僕の才能が眠ってるから

最近の話

 

 痔になったようだ。気張るたびに肛門が痛むなと感じはじめて、それでも「まあちょっと切れただけだろう」と二週間ほど無視していた罹患が、いよいよ本気を出してきた。

 

 痛いだけではなく、痒みもある。むしろこちらの方が辛い。人前で尻の穴をピンポイントで掻きたくないし、怪我は触ると治りが遅くなるか、もっと酷くなったりもするので掻けない。痒いところを掻けない辛さは、悲しむ人を目の前に何もできない無力感に似ている。

 

 それゆえに、痛いながらも大便をひり出し、尻を拭く時は快感がある。この時だけは「仕方がない」という理由で、トイレットペーパー越しに尻を掻けるからである。

 

 汚い話が続いてしまったが、そういうわけでいよいよ負けを認めて痔の薬を買いに行った。近所の薬局には一種類しか痔の薬がなく、「オシリア」という軟膏だった。「おしり」という言葉の入った薬は逆に清々しく、恥ずかしいどころか、とっておきのギャグを披露する気持ちでレジに出せた。

 

 浅いマッシュヘアの店員は「シールでいいですか」と聞いてくる。

 

 俺は高校三年から大学一年の終わりまでドラッグストアでアルバイトをしていたのだが、コンドームや生理用品、痔の薬は茶色の紙袋で包むことになっていた。その経験がかえって「適当に返事をしてても包んでくれるだろう」という油断に繋がった。シールでは困るのに、俺はうっかり「はい」と答えてしまう。

 

 服にポケットは付いていなかったし、ズボンのポケットは軟膏の箱を入れれるほどのスペースはない。箱から出して本体だけにすれば入らないこともないだろうが、買ってすぐ箱から出していれば「こいつそんなに……」と思われそうで恥ずかしい。

 

 俺は先日無印良品で鼻毛を切るハサミと鏡を二つ同時に買い“今すぐ鼻毛を切りたい人”みたいになってしまった。このせいで「今すぐ〇〇したい人」に見えることに対して過剰な警戒があったのだ。俺はオシリアを素手で掴んで持ち帰った。

 

 その日の夜、風呂上がりにさっそく使ってみようとした。ただ、お尻というのは自分では見えない。適当に塗ってもいいのだが、どこがどのような具合になっているのか確認しておいた方がより効果的に塗れるだろう。そもそも、俺は自分の肛門がどうなっているのか分かっていなかった。痛みの種類からすると、おそらく切り傷のような細い裂傷があると予想されたが、それならそれで傷の部分を厚く塗り、そのまわりの痒いだけのところは薄く広げるべきだ。それも確認してみないことには分からない。ともかく一度見てみようと思った。

 

 初めは床に鏡を置き、それを便器のようにまたぐ形で確認しようとした。だが、自分の影になって鏡が暗いうえ、俺は目が悪いので風呂上がりの裸眼の状態ではよく見えない。仕方なく、スマホを股の間から通してインカメで撮影することにした。余ったもう片方の手で尻を広げながらである。

 

 なんとなく、スマホに汚い写真を取り込むのには抵抗がある。幼い少女に人間の醜いところを見せたくないのと似た感覚だろうと思う。

 

 そうして背中を丸めて撮るうちに、初めはピントがなかなか合わなかったのが、綺麗に(?)写りはじめた。よし、これでいいだろうと元の体勢に戻った瞬間、「えっ」という声が出た。

 

 えっ、腰が痛い。

 

 変な体勢で五分ほど格闘していたからか、下半身と上半身がうまく繋がっていないような奇妙な痛みが腰に走った。その痛みは一分二分と時間が経つにつれて増幅する。そして、ついにもはや歩くのさえすり足になるほどになった。あまりの痛さに涙が出てきそうになる。これはマジでやばいやつだ。さすがは「体の要」と書いて「腰」である。腰の痛みの前では、もはや尻などどうでも良い。適当にオシリアを肛門に擦り付ける。

 

 そろそろと廊下を這うように移動し、楽な体勢で床に転がった。少しの間安静にしようと、寝転がったままスマホを取り出し、肛門の写真を確認した。汚い話なのでどうなっていたのかまでは説明しないが、せっかく確認できたのに、ゆっくり薬を塗ることはもうできそうにない。肛門を広げるには、一番腰に負担のかかる角度をキープする必要があるからである。

 

 俺はこういう状態にぴったりの古事成語とかことわざはなかったかなと思いながら、写真を全て削除した。もはや手の届かなくなったものの写真を見つめても虚しいだけである。代わりに、腰の痛みを和らげる方法をググりはじめた。

 

 悲しい。どうしてこんなことになったんだ。俺はぐったりと体を横たえながら考えた。微妙な気分になりながらも薬を買い、せっかくここまできたというのに、あと少しというところで台無しになった。他の誰のせいでもない。俺の責任である。俺の普段の生活と、身体の耐久性の低さ。人生における一つ一つの決断が少しずつ俺を「尻と腰が痛い二十二歳」に変えていたのだ。

 

 俺は馬鹿だった。痛くない尻と腰がいつまでもあると思っていたんだ。こうして俺はこれからの人生でも、手のひらから少しずつ大事なものがこぼれ落ちていることに気付かず、いつか取り返しのつかない大切なものを失うのだ。いや、すでに今までも失ってきたのかもしれない。

 

 俺は今もなるべく腰に負担をかけないよう、寝っ転がってこれを書いている。みなさんも腰と尻は大切にしてほしい。本当に大切なものを守れる人間になるために。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

追加:これを書いたのは二日前で、腰と痔はかなりマシになっています。🐑

 

 

熱の時に見る海

Twitter:@rei_blue_

Instagram:k_night01_