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卒論「夕霧密通の可能性とその構造」草稿

 
はじめに
 光源氏の妻・女三宮は若菜下巻で柏木と密通する。すぐに気づいた源氏は怒りや屈辱もさることながら、過去に自分が行った不義を振り返り、自分がその時の父・桐壺帝と同じ立場であることに気付く。
 この因果応報とでも言うような展開には、あらかじめいくつか示唆的な場面、伏線のようなものが示されていた。しかしそれは必ずしも女三宮と柏木による密通の可能性を示すものではなかった。源氏は夕霧と紫の上との接触を避け、夕霧は垣間見た紫の上に憧れるなど、むしろ紫の上と夕霧の関係を意識して描かれていたようにも感じられる。
 また妥当性という点から考えても、源氏が過去に義理の母と密通し子をなしたことへの報いとするのであれば、柏木ではなく実の子である夕霧が、それも紫の上と密通するほうがより自然だろう。源氏と藤壺の関係と対応するからである。
 けれども物語上で密通が実際に行われたのは柏木と女三宮との間であった。「犯し」の可能性が夕霧から柏木へ、紫の上から女三宮に移ったことは物語の読みにどういった影響を与えたのだろうか。また、このことから源氏物語の宿世についてどのようなことが言えるだろうか。
 まずはこの夕霧密通の可能性について、本文を見ながら具体的な部分を確認し、可能態の物語について解説したい。
 その次に、源氏と宿世について考えてゆきたい。一部で見られた人相見や宿曜師による予言は、二部にはほとんど登場しなくなっている。病床の柏木の元へ来た修験者も、本筋に関わるような予言はしていない。絶対的な運命と呼べるものが無くなった二部において、宿世観はどのように変化したのか。源氏の言動に着目し、運命が人物の性質と切り離せない概念となったことを明らかにしていく。
 そうした二部の世界の中で柏木と女三宮の密通事件は起き、源氏はそれを過去の宿業の報いであると受け止める。応報としてより妥当性のある夕霧・紫の上の間とは別の場所で起きた事件を、源氏が報いであると認めたことになる。
出来事は人によって意味づけられる。運命は一方的に人物の行く先を決めているのではなく、知らず知らずのうちに、自分でも決定している。
 森一郎氏[1]は「源氏の栄光を高めると見られた女三の宮の降嫁が実は柏木との密通事件を内包することによって光源氏が己の過去に犯した罪にはっきり対面せざるを得ない仕儀となるものを知った時いよいよ栄華の内実は暗いものとなった」とし、源氏の栄華と、過去の過ちの関係に作者の世界観、人間観が秘められていると説かれた。また高橋亨氏[2]は可能態の物語について「若菜の巻で、柏木と女三宮との関係として新たな物語世界が現出するとき、主題的な状況は認識者の視点から存在感覚の問題へと物語ざまの変容を成し遂げる」と、密通の現場が夕霧・紫の上から柏木・女三宮へと移ったことで、より主題的な、行為者による感覚を描く物語へ変貌したことを論じられた。
本稿ではそうした宿世という観念の変化と、源氏の因果を、物語の構造という視点から考えてみたい。


 


 
 
一章 源氏の宿世と夕霧
 源氏物語の世界において「宿世」という観念が重要な意味を持つことは、これまでの数々の研究でも言われてきた。特に二部、若菜巻の展開には「過去に比較浸透された今を描くという方法」で、新しい物語でありながら、過去と切り離せない今を描いていると清水好子氏[3]は論じられた。そもそも宿世とは、前世からの因縁によって逃れることのできない運命や宿命ことを指す言葉だが、源氏物語にとって宿世は単なるテーマの一つにとどまらない。物語の展開やその捉え方、人物像などの細部にまで影響を持ち、物語世界により深い意味を与えているのである。
 源氏が生きる上であらかじめ決まっていることがいくつかあるが、これも一種の宿世と言えるだろう。その中の一つが夕霧の成長であった。


御子三人、帝、后、必ず並びて生まれ給ふべし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべし。
(澪標・一〇七)


この宿曜で予言された三人の子供のうち、「中の劣り」と呼ばれるのが夕霧である。夕霧は葵の上との子として物語の早いうちから誕生していたにも関わらず、源氏の須磨流謫もありなかなか語られる機会がなく、ようやく話が出始めるのが元服を迎える少女巻であった。
 源氏はこの巻で、四位あたりから貴族社会へ入っていくのだろうと世間が予想していた夕霧を六位の大学生にすると決める。源氏の意向を世間は意外に思い、葵の上の母大宮などは夕霧が不憫だと恨みがましく源氏に訴えるのだが、こうした理由を語る場面には源氏の興味深い教育論を見ることができる。


高き家の子として、官爵心にかなひ、世の中さかりにおごりならひぬれば、学問などに身を苦しめむことは、いと遠くなむおぼゆべかめる。戯れ遊びを好み手、心のままなる官爵にのぼりぬれば、時に従ふ世人の、下には鼻まじろぎをしつつ、追従し、気色とりつつ従ふほどは、おのずから人とおぼえてやむごとなきようなれど、時移り、さるべき人に立ちおくれて、世おとろふる末には、人に軽め侮らるるに、かかりどころなきことになむはべる。なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。さし当りては、心もとなきやうにはべれども、つひの世の重しとなるべきこころおきてをならひなば、はべらずなりなむ後もうしろやすかるべきによりなむ
(少女・七二)


「若いころから思い通りになって位が上がると、人は内心馬鹿にしながらでもついてくるだろう。けれど時勢が変わるとそうはいかないだろうし、なにより学問をもとにしてこそ心の働きが社会に強く影響するようになるのだ」という、もっともな講釈である。
 この時代の下級貴族の子供にとって官人になるための大学入学は必須だったが、上層貴族の子供が大学に行くことは珍しかった。特に紫式部の父・藤原為時も受けた文章生の試験は難しく、何度も落第することがあったという。夕霧はこの試験に無事合格し、大学生になるのだが、こうした教育はその後の夕霧の性格に大きな影響を持つこととなる。


まめやかに、あだめきたる所なく
(少女・七六)


いとかうざくにねびまさる人なり。用意などいと静かに、ものものしや。あざやかにぬけ出ておよずけたる方は、父大臣にもまさりざまにこそあめれ。(中略)これは才の際もまさり、心もちゐ男々しく、すくやかに足らひたりと、世に覚えためり。
藤裏葉・一七五)


年若く、かろ〲しきやうなれど、行くさき遠くて、人柄も、つひに朝廷の御後見ともなりぬべき生ひさきなめれば
(若菜上・三一)
 
これは、いとすくよかに重々しく、雄々しき気配して、顔のみぞいと若う清らなること、人にすぐれ給へる。
(柏木・五〇)


まめ人の名をとりて、さかしがり給ふ大将
(夕霧・八九)


 教育のかいあって、夕霧は堅実で落ち着きのある、理想的な青年貴族へと成長してゆく。それは源氏の思惑通りのはずであったが、物語では源氏がなぜか夕霧を近くに寄せ付けない様子が描かれる。


中将の君を、こなたには気遠くもてなし聞え給へれど、姫君の御方には、さし放ち聞え給はず、ならはし給ふ。
(蛍・三四)


御簾の前にだに、もの近うもてなし給はず
(少女・九九)


これについては夕霧本人も気付いていて、大宮に不満を漏らす場面がある。


物へだてぬ親におはすれど、いとけゝしうさし放ちて思いたれば、おはしますあたりにたやすくも参りなれ侍らず。東の院にてのみなむ、御前近く侍る。
(少女・一〇五)


夕霧がこのように思うのは無理もない。単に幼少期から源氏が須磨へ流謫していたり、別々に暮らしているというだけでなく、普段から近寄らせないというのは誰が見ても不審だろう。
これについては、源氏は過去の自分の過ちが頭にあり、夕霧と紫の上が近づくことを警戒しているのだろうと読まれてきた。たしかに、源氏が結婚について夕霧に語る場面は、そのような印象を抱かせる。「自分も今になって父帝の言葉が正しかったと気付くのだが」と前置きした後、このように続ける。


つれづれとものすれば、思ふ所あるにや、と、世人も推し量るらむを、宿世のひく方にて、なほなほしきことにありありて靡く、いとしりびに人悪き事ぞや。(中略)位浅く何となき身の程、うち解け、心のまゝなる振舞などものせらるな。心自らおごりぬれば、思ひしづむべき種なき時、女の事にてなむ、賢き人、昔も乱るゝ例ありける。
(梅枝・一六八)


 大した身分でない時に思いのままにふるまうなというのは、源氏が過去から学んだ教訓の一つだろう。このあとに続く「とりあやまりつゝ見む人の~」という部分は葵の上を踏まえているのか、結婚と分別について講釈をしている。
 ところで、独り身のままだと宿世に導かれるまま「なほなほしきこと」になり、それが尻すぼみで世間体も悪い、というのは源氏の経験に基づいたアドバイスではない。光源氏元服してすぐに結婚しているからである。
ここは夕霧のことを考えた時に、源氏の内部から自然と出てきた思想と考えるべきだろう。この時代の親として、息子に早く結婚して欲しいと願うのは自然なことではあるが、同時に夕霧が決まった女性と結ばれないことで変な気を起こすのを危惧する気持ちがあったとも読める。過去の自分がそうであったように、現状に満足できない夕霧が憧れの女性と懇意になることを恐れているとは考えられないだろうか。
 野分巻で夕霧が紫の上を垣間見たあとの源氏を見てみたい。


いといたう心げさうし給ひて、「宮に見え奉るは恥づかしうこそあれ。何ばかりあらはなるゆゑ〱しさも見え給はぬ人の、おくゆかしく心づかひせられ給ふぞかし。いとおほどかに女しきものから、気色づきておはするや」とて、出で給ふに、中将眺め入りて、とみにも驚くまじき気色にて居給へるを、心とき御目にはいかゞ見給ひけむ、立ちかへり、女君に「昨日風のまぎれに、中将は見奉りやしてけむ。かの戸のあきたりしによ」と宣へば、面うち赤みて、「いかでかさはあらむ。渡殿の方には人の音もせざりしものを」と聞え給ふ。「なほあやし」とひとりごちて渡り給ひぬ。御簾の内に入り給ひぬれば、中将、渡殿の戸口に人々のけはひするに寄りて物など言ひたはぶるれど、思ふ事の筋々歎かしくて、例よりもしめりて居給へり。
(野分・六九)


源氏は直前まで中宮のことについて話していたにも関わらず、物思いにふける夕霧を見た途端、突然紫の上に「見られていないだろうな」と問う。しかも、紫の上の返答も信じられない様子で、ほとんど強迫観念に囚われているかのようにも見える。
 実際夕霧は紫の上を見ているのだから、源氏の心配もあながち的外れなわけではない。とはいっても、あまりに勘が良すぎるし、実の息子に妻を見られたところで、それほど大問題になったり、源氏や紫の上の品位が落ちるということもないだろう。それをここまで警戒するとなると、やはり源氏は日頃から過去の自分と重ねて夕霧を見ていたために、彼と紫の上が関わるのを恐れていたのだと見ることができるだろう。
 
 こうして源氏の視点を通して物語を読む読者は、しだいに夕霧と紫の上が密通するのではないかと考える。源氏の不安、過去の行いに対する報い、夕霧の気持ちなどを勘案すると、もはや夕霧と紫の上の裏切りこそが、源氏にふさわしい運命であるかのように思えてくるのである。これがいわゆる「犯しの可能性」や「可能態の物語」である。
 夕霧密通の可能性は野分巻の垣間見にて絶頂を迎える。
 六条院で紫の上を見た夕霧は「物に紛るべくもあらず、気高く清らに、さと匂ふ心地して、春の曙の霞の間より面白き樺桜の咲き乱れたるを見る心地す」「あぢきなく、見奉るわが顔にも移りくるやうに愛敬は匂い散りて、またなく珍しき人の御様なり」と心をかき乱される。また、それだけでなく紫の上のことが忘れられない自分に気付き懸命に記憶から振り払おうとしても、ふとした瞬間に浮かんできて、「あのような人と結婚したい」とまで考えてしまう。これは、藤壺に思いを馳せていた、若いころの源氏と全く考えである。けれど、源氏と夕霧の違いは、同時に紫の上と並ぶ源氏を見ると、自分の親とは思えないほどあでやかな様子で、とてもこの二人に並ぶものなどいないだろうとも思ってしまうところである。
 夕霧の紫の上に対するあこがれと、正攻法では源氏に敵わないという二つの動機がここに至って揃ったことになる。
 だが実際には紫の上と夕霧の間に何かしらの関係が発生することはなく、密通という読者が予期した展開は柏木と女三宮の二人によっておこるのである。
 張られた伏線と、実際の展開との乖離。問題を端的に言ってしまうとこれになる。描かれた場面がその後の展開に無関係であるはずはなく、何かしらの意味を持つと考えるべきだろう。
 


 
 
二章 実際の密通と源氏
 高橋亨氏[4]は「夕霧が紫の上と密通して子供が生まれるというのが、六条院物語に底流する可能態の物語である」とし、野分巻前後に夕霧視点での叙述が出現することから、夕霧が行為者足りえない視点人物へと変わったことで密通を回避したと述べる。
 夕霧論においてしばしば重要視されるこの問題は、高橋亨氏のように、密通の可能性を認めたうえで、それが回避された原因・理由や物語の構造について論じるものと、そもそも「夕霧密通の可能性と言えるものがあるのかどうか」を探る二つで大別されるように思う。二つの入り口のうち、どちらから入るのかを明らかにせず論じることは不可能だろう。本稿は密通の可能性があったことを前提に、その方法や構造を考える。
 たしかに夕霧の人物像から考えると、実際に夕霧が源氏を裏切る可能性は低い。また夕霧の密通というのは源氏による個人的な警戒の対象であって、作者が物語全体に渡ってそのような展開の可能性を考えていたかどうかを言い切ることは、どちらにしても難しいだろう。
 さらに野分巻について、紫の上を垣間見た夕霧のその後の描写から「紫上への思慕は仰ぎ見る理想的な女性像ではあっても、義母密通に向かう方向性は持っていなかった。のみならず、紫上の垣間見は父の偉大さへの尊敬の念さえ抱かせるものであったのである」とする熊谷義隆氏[5]のような意見も無視できない。実際、夕霧は「紫の上に似た人と結婚したい」と考えただけで「紫の上に近付きたい」と願ったわけではなかったし、紫の上のような美しい女性と暮らしながら、やや容姿の劣るとされる花散里にも如才ない対応をする源氏を尊敬し直している。ここだけをみれば夕霧が紫の上を犯す可能性を読み取ることはできない。
 ただ、これらの意見はいずれにしても垣間見の前後や、今井上氏[6]のように一部の文の解釈をしているに過ぎない。それに対して、源氏の宿世と夕霧の成長、紫の上の立場というのは、どれも作品全体を貫くテーマであり、マクロな問題である。局所的な前後の繋がりや人物像にとらわれるのではなく、より広い視野で、慎重に検討する必要があるのではないだろうか。
 日向一雅氏[7]は益田勝実氏の桐壺巻の分析を通して得た宿世観を指標とし、「宿世の問題は単にそれが観念として作品に散りばめられていたとか、人生観の問題としてあったというだけでなく、個々の人生を宿世の実現として構造化する方法がとられていた」と説いた。作中人物の人生とはまさに宿世が構造化されたものであり、源氏の宿世について分析しようと試みるとき、その人生の全体像と切り離すことはできない。
 源氏の夕霧への警戒は自身の過去の経験に基づいていた。宿曜師が源氏の子の未来を予言したことからも、物語世界において子供の成長は親の宿世によってある程度決まることが分かる。
 夕霧が物思いにふける描写のあと、「心とき人の御目にはいかゝ見給ひけむ」、源氏の目にはどう映ったのか分からないが、と前置きして、紫の上に誰かに見られていないか尋ねる源氏の様子が見られる。夕霧が紫の上を想う様子は源氏にとって、なにか他の人には分からないものを想起させるものであったことが分かる。

 源氏はその後玉鬘と自分が親密にしているところを夕霧に見られる。これまで夕霧と慎重に距離をとっていた源氏とは思えない不注意である。これは意図的に夕霧へ見せつけたと考えるのが自然だろう。
 そのようなことをした理由を考えるには、藤壺に憧れる源氏を振り返ってみればよい。熊谷義隆氏[8]は「藤壺を永遠の女性と思慕していた自分はどうしたか。藤壺のような人と二条院で暮らした(い)と願っていた光源氏は、さまざまな女性と関わり合い、最初に二条院に伴おうとしたのが夕顔であった」とし、そうした自らの体験から、その娘である玉鬘を夕霧に見せ、憧れの思いを相殺しようと考えたのではないかと指摘する。
 夕霧と源氏の関係についてはすでに様々な研究があり、ここで取り上げることはしないが、問題は源氏自身が夕霧との類似性を過剰に意識していることだろう。言うまでもなく、源氏と夕霧の人物像は対照的なところが多い。顔こそ生まれた時から似ているとされているが、前述のとおり夕霧は堅実でまめな人間であり、華やかな印象の源氏とは異なった描かれ方をしてきた。
 それにも関わらず源氏は夕霧を自分と重ねて理解しようとしている。源氏は自分の人生が宿世に支配されていると思い込みすぎるあまり、実際の夕霧の姿が見えていなかった。
 
 源氏はその生の初めから宿世と共にあった。桐壺巻冒頭、源氏の誕生は「さきの世にも御ちぎりや深かりけむ」、前世で深い約束でもあったのか、きれいで光り輝く王子が生まれたと書かれている。まさに源氏は宿世のために生まれたのであり、その後の人生も、高麗人の人相見によって「国の親となりて、帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。おほやけの固めとなりて、天下を輔くるかたにて見れば、亦その相たがふべし」と言われ、ある程度運命的な力によって支配されていることが分かる。
 また、若紫の巻、藤壺との密通の後は「及びなう思しもかけぬ筋のこと」「その中に違目ありて、慎ませ給ふべきことなむ侍る」と夢によって、冷泉帝の誕生や須磨流謫というのちの展開を予言した。
 源氏は自分の未来が宿世によって定められていることに自覚的だった。分かりやすい例は明石の姫君の養育だろう。宿曜師に娘が天皇の后になると言われた源氏は、入内したときに恥をかかないよう、さっそく明石の姫君を都で教育する。
 藤裏葉巻で、予言通りに帝でも臣下でもない准太政大臣になり、源氏の栄華は最高潮に達した。ここまでが一部である。
 藤裏葉巻までは随所に予言が散りばめられ、それを回収するという形で物語が進められてきた。もちろん細かい部分は予言されていないが、大まかな筋は、それを予感させる言葉によって牽引されていたのである。
 それに対して、若菜上巻以降に物語がどのように進むのかを示唆する記述はない。代わりに一部の繰り返しという手法を用いて、人々の変貌を描き、過去の事件を捉えなおすところから二部は始まる。このことについては清水好子氏[9]の論文が詳しい。これから述べることと深く関係するため、少し長めに引用する。
 
〝繰り返される過去〟という観点から、新しく始まる物語の発端の巻を見ると、若菜上下巻には、第一部にあらわれた主たる事件がことごとく姿をあらわすことに気がつく。あるものは歳月の累積による変貌をさらし、あるものは時の流れも人間の願いも寄せつけぬ業の深さを示している。また第一部において、主人公光源氏の身の上にかかわりを持った人々はすべて再登場するか、回想され、人も事件もその意味を再考されている。いわば、若菜の巻の時点で光源氏の過去は逆に照らし出され、その一生の意味が問い直されているのである。
こうしてすべての過去が自分たちは滅びたのではないのだぞとばかり、続々と顔を出すなかで、まったく新しい装いで、降って湧いたかのようにして起こったことが、実はもっとも忘れがたい、もっとも秘密な過去の登場だったことを若菜後半がはっきり教えてくれるのである。
 
 帝が変わろうとし、その后である藤壺という名の女性が苦しみながら死んだという一部と非常によく似た状況の中で、登場人物は過去を回想する。源氏の須磨流謫についても、夕霧と朱雀院の会話のなかで新しい見方が加わる。


年まかり入り侍りて、おほやけにも仕うまつり侍るあひだ、世の中のことを見給へまかりありく程には、大小のことにつけても、内々のさるべき物語りなどのついでにも、いにしへのうれはしき事ありてなむ、など、うちかすめ申さるゝ折りは侍らずなむ。
(若菜上・一九)


 源氏は公の場だけでなく、親子の間の会話においても「昔ひどい目に遭って」などと漏らしたことがない。源氏にとって須磨流謫は朱雀帝を恨む理由にはならなかった。冷泉帝を支えるために都に戻ったのにそれほどお役に立てなかったことを悔やんでいるのみで、一部最大とも言える事件でさえ、源氏の器の大きさの前では大したことではなかったかのように思えてくるのである。
 そうした過去の再評価の中で、いよいよ女三宮の降嫁が決まる。これが柏木密通の発端になるわけだが、この一見全く新しい展開でさえ過去の影響を逃れることはできない。それどころか、これこそがまさに一部の繰り返しという主題を支える大黒柱となっているのである。
 女三宮の婿選びは兵部卿の宮、大納言の朝臣、柏木、夕霧などと比較した結果、やはり源氏が最適だろうということに決まる。ここで重要なのは、朱雀院などの周囲の人間が一方的に源氏を選んだのではないということである。浮気心があり、さらに長年連れ添った紫の上がいる源氏に嫁がせることに朱雀院は不安を抱いていた。そもそも源氏が引き受けてくれるかも分からない。
 しかし、その心配は源氏自身によって否定された。左中弁は源氏が普段から「女の筋にてなむ、人のもどきをも負ひ、わが心にも飽かぬこともある」とたびたび内々の無駄話で言っていることを知っており、引き受けるに違いないと強く保証するのである。
 そして実際、源氏は女三宮の世話を引き受けた。はじめこそ、源氏は年が離れていることもあって興味を示さなかったが、左中弁が女三宮について詳しく説明すると態度は豹変する。笑みを浮かべて、「藤壺と同じ血筋なら見た目も相当だろう」というようなことを言いながら興味津々という雰囲気に変わるのである。
 女三宮の降嫁は柏木密通事件の始まりであるが、舞台を整えたのは他ならぬ源氏自身であった。過去の言動が、また、今もなお満たされない藤壺への渇望が女三宮を引き寄せた。
 また柏木と女三宮の出会いにも注目したい。柏木が女三宮の姿を見て、いよいよ本格的に思いを馳せ始めるのは、若菜上巻の最後である。
六条院で「静かなる住まひは、この頃こそいとつれ〲に紛るゝことなかりけれ。公私に事なしや。何わざしてかは暮らすべき」と退屈を紛らわすすべを探していた源氏は、夕霧が別のところで大勢の人に蹴鞠をさせて見物しているというのを耳にして、六条院に呼び寄せる。そこで青年貴族による蹴鞠が行われ、途中、夕霧と柏木が階段で休んでいたところ、唐猫によって御簾が引き上げられたことで、二人は女三宮の姿を見るのである。
 源氏の藤壺への執着が女三宮を六条院に招き入れ、退屈を嫌う性格が女三宮と柏木を出合わせた。一部においては予言等の力が絶大で、その通りに物語が進んだのに対し、二部からは源氏自身が物語の展開を引っ張っていくのである。
 その後に起きた、女三宮と柏木の不義は源氏に直ちに知られることとなる。寝床から出てきた手紙が柏木の筆跡だと分かり、すっかり卑屈になった源氏は女三宮に「老け込んだ私をあなたは情けないと思うのでしょう。自分でもそう思うが、朱雀院の思いには応えたいので出家はまだできない」というようなことを言うが、源氏は女三宮を勘違いしているのである。女三宮は無理やり柏木に犯されたのであり、源氏を裏切ったわけではない。それを知り得ない源氏は、柏木と過去の自分、また今の自分と過去の桐壺帝を重ね


故院のうへも、かく御心には知ろしめしてや、知らず顔をつくらせ給ひけむ。思へばその世の事こそは、いとおそろしくあるまじきあやまちなりけれ
(若菜下・一八二)


と自分の宿業の恐ろしさを再確認するとともに、柏木を手放しで責めることができなくなる。
 このように源氏が自分や女三宮を責める態度は徐々に増してゆき、柏木と女三宮の子、薫が生まれた時には


さてもあやしや。我、世と共に恐ろしと思ひしことの報いなめり。この世にて、かく思ひかけぬ事の報いなめり。この世にて、かく思ひかけぬ事にむかはりぬれば、後の世の罪も、少し軽みなむや
(柏木・二六)


と過去の行いの報いだと受け止める。それは「これくらいのことがあれば来世の罪も軽くなるだろう」と思えるほどの衝撃でもあった。
 妻を青年貴族に取られたとあっては外聞も悪いし、なにより朱雀院の娘であるので、他の家に真実が漏れないように女三宮と薫を養育していくしか選択肢はない。
 柏木とはずっと親密にしていたので連絡すら取り合わないと、人から不審に思われるだろうと気にしてはいるのだが、


人あやしと思ふらむと思せど、見むにつけても、いとゞほれ〲しき方はづかしく、見むにはまたわが心もたゞならずやと思しかれされつゝ、やがて月ごろ参り給はぬをも咎めなし
(若菜下・一九五)


というように、柏木に馬鹿にされるのが怖く、また自分も柏木を見れば冷静ではいられないだろうと怖気付き、直接怒ることはおろか、手紙すら出さなくなっている。
しかし呼ばないわけにもいかない試楽には参上するように呼びかけ、柏木も嫌々ながら応じる。源氏は宴の席で柏木にしか分からないように「さかさまにゆかぬ年月よ。老いはえのがれぬわざなり(若菜下・一九九)」、お前もいつかこうなるのだと、酔ったふりをして笑いながら皮肉を言う。
鷹揚に構えているかのように振舞いながらも、源氏は自分でも予想できない動揺と怒りを抱え、周囲への当たりも強くなっている様子が見られる。それは柏木に対してだけではない。
心の中で女三宮の至らない部分を並べては残念に思い、実際に女三宮にそれを言うことはしないものの、明らかに冷たい様子は女三宮も女房も気がついている。女三宮が出家したいと言い出したときも、口ではとんでもないことだとなだめるが、内心は「まことに、さも思しよりて宣はば、さようにて見奉らむは、あはれなりなむかし」と考える。本当にそうしてくれるならと望まずにはいられない様子からも、源氏が女三宮に愛想をつかしているのが分かる。 生まれたばかりの薫に対する態度も厳しい。


あな、口惜しや。思ひ交ずる方なくて見奉らましかば、めづらしく嬉しからまし
(柏木・二六)

 

かく忍びたる事の、あや憎にいちじるき顔つきにて、さしいで給へらむこそ、苦しかるべけれ。女こそ、何となく紛れ、あまたの人の見る者ならねば安けれ
(柏木・二六)


おとゞは、いとよう人目を飾り思せど、まだむつかしげにおはするなどを、とりわきても見奉り給はずなどあれば
(柏木・二七)


 見た目が非常に美しく、源氏も可愛いとは思うのだが、それだけに純粋に可愛がることができないことを残念だと感じる。成長して顔が柏木に似ていたら困る、女であれば大勢の人に顔を見られることもなかったのにと、今更言ってもどうにもならないような思いを巡らせ、薫の存在を受け入れられない。
 そうした源氏の煩悶が解決されるのは横笛巻においてであった。月日を重ねるとともに、薫のかわいらしさに絆され、薫の顔が鏡に映った自分に似ているような気さえしてくるようになる。さらには「うきふしも忘れずながらくれ竹のこは捨てがたきものにぞありける」と嫌なことを忘れたわけではないが、同時に薫を愛することもできるようになっていくのである。
 源氏の内面の変化に伴って、柏木と女三宮の事件は捉えなおされ、また別の側面を表すこととなる。


「この人のいでものし給ふべき契りにて、さる思ひのほかの事もあるにこそはありけめ。のがれ難かなるわざぞかし」と少しは思し直さる。
(横笛・六一)


 自分の過去の過ちはこの子が生まれるためにあったのだと、女三宮・柏木の密通だけでなく、自分と藤壺の件まで精算されるのである。
 さて、もう一度大事な点を整理しておきたい。
 少女巻から野分巻において、物語は夕霧と紫の上が密通する可能性を提示してきた。源氏は自分の過去の過ちから、夕霧を紫の上に近付けないよう警戒して育て、にも関わらず、夕霧は紫の上に憧れるようになる。しかし実際の物語において夕霧と紫の上が親密になることはなく、かといって密通の因果自体がなくなったわけでもなかった。密通は女三宮と柏木の元で行われ、その結果薫が誕生することとなる。
 密通は女三宮にとって事故のようなものであったが、それを知り得ない源氏は女三宮が子供っぽく思慮に欠けるゆえに自分を裏切ったのだと思い、柏木だけでなく、女三宮や薫にまで冷たく接するようになる。そしてその決着は源氏の報いの自覚によって行われた。
 こうしてできた過去の因果と実際の事件のズレ、また実際の事件と源氏の理解のズレによって生まれた応報は、どのように読まれるべきであろうか。


 
 
三章 宿世観の変化
 夕霧と紫の上が密通する可能性について、またのその後の源氏について、日向一雅氏[10]は
 
物語は事件としての照応に応報を語ろうとしていたのではなかった。もし事件として源氏の犯しに対する最も正確な応報を構えるとすれば、夕霧が紫の上と密通することでなければならないはずである。応報はあくまで源氏の内面の問題としてあったのである。事件としての正確な照応によって応報が成立するのではなく、藤壺事件を投影しないではすまされない地点に源氏を立たせ、かれに「報い」を実感させたこと、そのように応報を内面化したところに源氏の宿業の人生が現実化したのである。
 
と論じられた。
 完全な応報とは別の場所で起きた密通を自分と重ねてしまうこと。実際の事件ではなく、それを報いであると感じる源氏自身の罪の意識こそが宿業であるとするこの論を指標に、前述の二つの問題を考えなおしてみたい。
 
 源氏物語に書かれる事件は、それを知った人の受け止め方によって意味付けられる。それは必ずしも表面上の分かりやすい因果と一致しているものばかりではなく、読者にとって不自然に感じられるものも存在する。
 例として、広瀬唯二氏[11]が示した須磨流謫における源氏の理解を挙げておく。
 広瀬氏は源氏の須磨への退去は、直接的には朧月夜との密会が原因となっているが、以下の言葉から、源氏自身はそう考えていないと指摘する。


かく思ひかけぬ罪に当り侍るも、思う給へあはすることの一ふしになむ、そらも恐ろしうはべる。惜しげなき身は亡きになしても、宮の御世だに事なくおはしまさば
(須磨・三三)


 さらに、その後に登場する明石の入道は、自分の願いが源氏をこの地に引き寄せたのだと考えている。それを聞いた源氏も考えを改めそのことに納得しているため、彼にとって、須磨への退居は何かの報いで行われた事件ではなくなった。藤壺との一件の報いは成立しておらず、そのために若菜下巻で再び事件が起きるのだとするのが、広瀬氏の論の一部である。
 誰の考えが真実に近いのかは別として、各々が物事に対して独自の見方を持っており、一つの事件に対していくつもの側面が提示されていることが分かる。
 夕霧と紫の上の接近について考えてみたい。
源氏は夕霧が義母と密通する可能性があるとして警戒し、実際に二人が接近した時は、すぐに対処することで夕霧の注意を紫の上から逸らすことに成功したと考えているはずである。それに対して夕霧は、一時は紫の上に心を乱されるが、犯そうとする気持ちは一切芽生えず、過去に垣間見た花散里と比べたり、源氏の器の大きさに気付き直したりするきっかけとしていた。さらに、周囲の人々は夕霧を「まめ人」と評し、その堅実さ、実直さを認めているために、紫の上とつながる可能性などは考えもしなかっただろう。
 誰の見方が正しいのかという明快な答えは存在しない。実際には、夕霧と紫の上は接近したように見えたが密通とまではいかなかったという事実があるだけである。それに対し、人物それぞれの解釈がある。
日向一雅氏の言うように、過去の宿業に対する応報が成立するとすれば、それは源氏の内面においてのみだろう。実際に起きる事件には様々な要因があり、また解釈も人物の数だけ存在するからである。
 女三宮懐妊の件で言えば、女三宮にとって柏木との関係は事故であり、源氏を裏切る意思があったわけではなかった。けれども源氏にとっては「のがれ難かなるわざ」であったのであり、偶然起きた事故ではないのである。
 ところで、ここで再確認しておきたいことは、「のがれ難かなるわざ」である柏木と女三宮の密通と、その結果である薫の誕生は、藤壺との件による報いという遠い因果関係だけでなく、もっと直接的に源氏が呼び寄せていたために起こったということである。
 源氏の言動が、彼を年の離れた女三宮の婿候補にし、柏木と女三宮を出会わせた。
自分で原因を作っておいて「宿世など知りがたきわざ」であるとか「のがれ難かなるわざ」と、全く自分には干渉できない力が働いたことにする論理を否定しようとするわけではない。自分の行動のどれがどのように働くのかは、後になってからでないと分からないこともあるだろう。特に若菜巻以降の世界においては、決められた未来へ向かって進んでいたわけではない。
 源氏が逃れられなかったのは「報い」ではない。彼が光源氏であるということ、そのものだったのではないだろうか。
 運命とはその人の性格・性質のことであった。そのため、源氏によって進められたように見える物事であっても、意識して行ったわけではないので、逃れることができない。
 若菜上下巻以降の展開において過去の繰り返しが見られるということは、前述のとおりである。作者は一部の再現によって、過去の事件の捉えなおしだけでなく、後悔や反省にもかかわらず同じことを繰り返してしまう人間の様子を描いている。
 かつての事件は偶然起きたのではない。時間をおいて再び現れる状況が、時間が経てども変わらない人間の性質を浮き彫りにしている。
 時が過ぎたことは、作中人物によるたびたびの回想でも語られている。作者が意図的に、読者に過去を思い出させようとしているのだろう。
 例えば紫の上によって須磨のことが現在との引き合いに出された。


げにかたはら寂しきよな〱経にけるも、なほたゞならぬ心地すれど、、かの須磨の御別れの折りなど思し出づれば、「今は」とかけ離れ給ひても、たゞ同じ世のうちに聞き奉らしかば、と、わが身までのことはうち置き、新しく悲しかりし有様ぞかし。
(若菜上・五一)


 女三宮降嫁以降の源氏は、彼女と紫の上の元を行ったり来たりしていたので、紫の上は自然と以前より一人で寝る夜が多くなった。その寂しさのために、源氏が須磨へ退居していた時のことが思い出されるのである。
 しかし源氏は健気な紫の上に対して、さらに追い打ちをかけるように裏切りを重ねる。
 朧月夜に会いに行く源氏は、後ろめたさがあったのか、紫の上に「末摘花の元へ見舞いに行く」と嘘をついて出かける。長年連れ添った紫の上は源氏の様子がおかしいことに気付くのだが、あえて何も言うことはしなかった。なぜかというと、紫の上にとって今の状態は


何事も、いと過ぎぬる方のやうにはあらず、少し隔つる心そひて、見知らぬやう
(若菜上・五九)


であるからであった。
 読者にとってみれば、新しく幼い女性が登場し、源氏が重要な女性とすれ違うさまは、かつての若紫・葵の上がいた頃と重なるのだが、紫の上にとって現在の状況は初めて見るものである。他人行儀な気持ちが芽生え、源氏に対する不信感を抱き始めている。
 少しずつではあるが、過去と現在が繋がり始める。しかし、それはあくまで源氏のみを軸にした繋がりであった。他の人から、それがたとえ源氏に最も近いところにいる紫の上から見たところで、「過ぎぬる方のようにはあらず」と見えるのは、内在化した宿世がもつ性質の一つである。過去の解釈は人により異なっていて、全く同じ事実を共有しているのではなくなっている。もはや、彼らは一つの運命に向かって進んでいるのではない。
 しばしば二部における光源氏の相対化について議論が行われてきたのも、このためだろう。源氏が自分の運命を自分で決めているように、他の人物も、自身の行く先を自ら引き寄せ始めている。
 二条院で行われた朧月夜と源氏の密会は、過去の回想のためのみに行われると言っても過言ではない。共に過去を思い出し、かつて花の宴が行われた季節と重なるように藤の描写がある。


むかし藤の宴し給ひし、このころのことなりけりかし、と思し出づる。年月のつもりにける程も、その折りのこと、かき続けあはれに思さる。(中略)「この藤よ。いかに染めけむ色にか。なほえならぬ心そふ匂ひにこそ。いかでかこの蔭をば立ち離るべき」と、わりなく出でがてに思しやすらひたり。
(若菜上・六一)


 源氏はお供に藤を一枝折らせて、「須磨での出来事も忘れられないが、まだここにいたい」というような歌を詠む。源氏は過去を繰り返すことに抵抗がない。
 そんな光源氏が二条院から戻った時の紫の上の様子は、さりげないながらも、この後の展開を象徴するかのようだ。


今めかしくもなりかへる御有様かな。昔を今に改め加へ給ふほど、中空なる身のため苦しく
(若菜上・六三)


紫の上の涙ぐみながらの言葉は源氏に対する恨み、嫌みだけではなく、過去を繰り返そうとする彼への誠実な警告だった。彼女の心からの訴えは、意図せず、過去の繰り返しという、若菜巻の核心に触れているのである。
 こうして見ていくと、二部以降の物語はすべからく源氏が昔から固執していた癖であったり、生来の性質が次の展開を呼び寄せていると分かるだろう。
 源氏自身、そのことを知らないわけではない。病床で弱気になる紫の上に

ゆゝしく、かくな思しそ。さりともけしうはものし給はじ。心によりなむ、人はともかくもある。おきて広きうつはものには、幸もそれに従ひ、せばき心ある人は、さるべきにて、高き身となりても、ゆたかにゆるべき方は後れ、急なる人は久しく常ならず、心ゆるくなだらかなる人は、長き例なむ多かりける
(若菜下・一五三)


 と、人としての在り方が寿命や生き方を決めるのだと説いている。
 そこまで分かっていながらも、源氏は自らの行動が悪い方向へと進んでいるのを止めることができない。藤壺へのあこがれが壮年になってもついて回り人生を狂わせているというような、よく言われる単純な話ではなく、もっと根源的な源氏の性質、考え方の傾向のレベルの問題である。女三宮の降嫁によって、紫の上を含む六条院が絶妙なバランスで保たれている状態であっても朧月夜の元へ出掛けてしまうのが源氏であり、それはもはや自分の意思で変えられるものではない。
 源氏が過去を繰り返そうとしている間にも、藤裏葉巻で栄耀栄華を極めた後の六条院の秩序は、緩やかに崩壊してゆく。それはまるで、源氏を中心に周囲の人物を一つの方向へと向かわせていた予言という結び目が解かれたかのようでもある。それぞれが自由に絡まり、別々の方向へと流れていく。
 このような若菜巻以降の世界で、いくら源氏が過去を甦らせようと働きかけたところで、藤裏葉巻のような大団円を迎えることは、もはやあり得ない。
 宿世観の変化が分かりやすい形で現れたのが、柏木・女三宮の密通であり、薫の誕生であった。その後に女三宮の出家、夕霧の物語、柏木の死、紫の上の死、と喪失体験が続き、そして最後に自分自身の出家と死が待ち受けている。
 けれどもこれは必ずしもカタストロフィーとは言えないだろう。源氏から解放された他の人物がそれぞれの人生を全うし、彼らの一人一人が内部に持つ宿世を完成させてゆく物語が始まったからである。
 密通事件によって源氏の内で成立した応報は、二部における相対主義的な宿世観を象徴する出来事と読めるのではないだろうか。
 


 
 
終わりに
 夕霧の野分巻における垣間見とその後の紫の上に対する憧れや動揺は、源氏の生き方、因果を勘案することで、密通の可能性として読まれることがあった。しかしそれと同時に、夕霧の人物像や、垣間見後の夕霧の様子から、構想としてそのような可能性があったと言い切るのが難しいということも事実であった。
 さらに、柏木と女三宮の事件が起こる伏線として、あるいは彼ら二人の成熟の度合いを対照的に描く目的で夕霧と紫の上の関係をあらかじめ配置したのだとすると、なぜ柏木と女三宮でないといけなかったのが疑問になる。
 不倫は源氏物語だけでなく、文学に欠かせない重要なテーマであるため、それが過去を捉えなおす巻において再び起きたことは不思議ではない。また源氏が帝や右大臣に発覚するリスクを抱えて藤壺や朧月夜と密通していたことから考えても、今や権力の最高地点にある源氏の陰でそれが行われることは自然な展開と言えるだろう。
 ところが、それがすんなりと行われず、不可解なフェイントが挟まれていることは問題である。一部で起きなかったことを、あえて二部で書いたことには何かしらの意味があると見たくなる。
 夕霧が持っていた密通の可能性が柏木へと移ったことも興味深い。注意深く見てゆくと、柏木と夕霧には不思議な縁がある。
 まずは玉鬘のことである。柏木の登場は玉鬘への求婚者としてであった。玉鬘が惹きつけた青年貴族は多くいたが、とりわけ執心だったのが柏木である。蛍巻や篝火巻でもその様子は見られる。


対の姫君の御有様を、右の中将はいと深く思ひしみて、言ひ寄る便りもいとはかなければ、この君をぞかこち寄りけれど「人の上にては、もどかしきわざなりけり」と、つれなくいらしてぞものし給ひける。
(蛍・三五)


 けれども、のちに玉鬘が柏木と血のつながった姉であることが発覚してからは、柏木の求婚はなくなる。
 入れ替わりで玉鬘に好意を寄せるようになったのが夕霧である。それまで実の姉だと思っていた玉鬘が、実は全くの他人であったことを知った夕霧は恋慕の情が抑えられなくなり、彼女に迫る。
 また、次に二人がセットで登場するのは、女三宮の婿候補としてであった。結局女三宮の降嫁は光源氏に決まるのだが、その後、二人は六条院で一緒に女三宮を垣間見ることになる。その結果、柏木は女三宮に対するあこがれを膨らませ、ついには密通事件へと至る。
 さらに、柏木が息を引き取った後、元柏木の妻である落葉の宮と恋仲になるのも夕霧である。
 柏木と夕霧はたしかに年は近いが、だからと言って、これほど同じ女性との縁を偶然共有することがあり得るだろうか。それも、たまたま同じ女性を好きになったというだけでなく、二人とも玉鬘との血の繋がりに翻弄されたり、二人同時に女三宮を垣間見したりしている。落葉の宮に至っては柏木の妻である。
 こう見ると、柏木は夕霧と絶妙なタイミングで取って代われるように計算して人物造形がなされていたようにも見えてくる。容姿は夕霧の方が優れているとされているが、落葉の宮の家の女房が夕霧と柏木を見間違える場面もある。
 
 残念なことに、何をどこまで考えて書いたのかは作者にしか分からない。成立論などからある程度は分析できるかもしれないが、それが正しいか否かという究極の判断は、少なくとも私にはできない。
 本稿は夕霧の密通の可能性をめぐる疑問と、若菜巻の事件を勘案して、納得できる読み方を模索した結果である。宿世や因果はどこで、何をもって成立するのかという問いに答えることができたとは思っていないが、一つの読みの可能性として、二部における宿世観の変化という選択肢を提示できればと思う。
 


 
 


[1] 森一郎源氏物語の主題」『日本文藝会 第十四号』日本文芸学会、一九七九年
[2] 高橋亨「可能態の物語の構造――六条院物語の反世界」『源氏物語の対位法』東京大学出版会、一九八二年
[3] 清水好子「若菜上・下巻の主題と方法」『源氏物語の文体と方法』東京大学出版会、一九八〇年
[4] 前掲2
[5] 熊谷義隆「少女巻から藤裏葉巻の光源氏と夕霧」『源氏物語の展望』第十輯、三弥井書店、二〇〇七年
[6] 今井上『光源氏論――澪標巻「思ふ様にかいづき給ふべき人」をめぐって――』笠間書院、二〇〇八年
[7] 日向一雅「宿世の物語の構造――父と子――」『源氏物語の準拠と話型』至文堂、一九九九年
[8] 前掲5
[9] 前掲3
[10] 前掲7
[11] 広瀬唯二「「野分」の構図――密通の因果応報と夕霧――」『鳴尾説林 第四号』狂孜会、一九九六年

 

参考文献

紫式部・玉上琢彌訳注『源氏物語 現代語訳付き』角川文庫、一九六四年

室伏信助・上原作和『人物で読む源氏物語 光源氏Ⅱ』、勉誠出版、二〇〇五年

工藤重矩『源氏物語の結婚 平安朝の婚姻制度と恋愛譚』中公新書、二〇一二年

森一郎源氏物語の主題」『日本文藝会 第十四号』日本文芸学会、一九七九年

高橋亨「可能態の物語の構造――六条院物語の反世界」『源氏物語の対位法』東京大学出版会、一九八二年

清水好子「若菜上・下巻の主題と方法」『源氏物語の文体と方法』東京大学出版会、一九八〇年

熊谷義隆「少女巻から藤裏葉巻の光源氏と夕霧」『源氏物語の展望』第十輯、三弥井書店、二〇〇七年

今井上『光源氏論――澪標巻「思ふ様にかいづき給ふべき人」をめぐって――』笠間書院、二〇〇八年

日向一雅「宿世の物語の構造――父と子――」『源氏物語の準拠と話型』至文堂、一九九九年

広瀬唯二「「野分」の構図――密通の因果応報と夕霧――」『鳴尾説林 第四号』狂孜会、一九九六年

日向一雅「宿世の物語の構造――桐壺帝と光源氏――」『源氏物語の視界2〈光源氏と宿世論〉』新典社、一九九五年

尾田綾子「『源氏物語』の教育学的考察 その四――柏木・夕霧に見られる王朝男君の心の様相――」『千葉敬愛短期大学紀要』一九八〇年